主幹・南丘喜八郎からの巻頭言

主幹・南丘喜八郎からの巻頭言


平成18年 (2006年) 4 月号


 
空中の楼閣、水中の月を掬うが如し



昭和四年に成立した民政党浜口雄幸内閣は、日銀総裁井上準之助を蔵相に起用、翌五年金解禁を断行した。しかし、前年のニューヨーク株式市場暴落を契機に世界恐慌が勃発、金解禁のための緊縮財政と海外からの不況とが重なった我が国は未曾有の不況に見舞われた。特に農山村の困窮は筆舌に尽しがたい状況だった。「住民はほとんど糊口に苦しみ、米を食するを得ずして、アワ、ヒエ等を常食とするの状態なり」(内務省社会局調査報告書)
 この年十一月、遂に浜口首相が東京駅頭で右翼の佐郷屋留雄に狙撃される。
 
 明けて昭和六年一月、第五九帝国議会で野党政友会が、金解禁を断行した民政党浜口内閣の責任を厳しく追及した。
 質問に立ったのは前田中義一内閣で蔵相を務めた三土忠造。金解禁によって深刻な経済不況をもたらしたとして、井上蔵相に論戦を挑み、責任を厳しく追及した。この質疑は当時、国会論戦の白眉と言われた。
 三土は日頃、井上を「大手飛車がかかった時に、王より飛車を可愛がるヘボ将棋だ。産業経済が王で、金本位制が飛車なのに、井上は産業経済を殺して、金本位制を欲しがっている」と、こき下ろしていた。
 精悍な表情の三土忠造は舌鋒鋭く、井上蔵相に迫る。
「金解禁以来、政府はつねに財界の情勢について、すこぶる楽観的な意見を持たれ、あらゆる機会においてこれを宣伝されましたが、事実はこの観測を裏切ったのである。すなわちわが国の経済界は、それ以来ますます萎縮沈衰の一路をたどり、生産消費の減退、物価の下落、貿易の不振、正貨の流出、破産の頻発、失業の続出など、ほとんどその止まるとこ ろを知らず、産を失い、家を傾け、身を滅ぼした者はすこぶる多数にのぼっている のであります」
 井上蔵相は、通貨膨張によってハイパー・インフレに悩まされたドイツを念頭に置き、こう答弁する。
「もし、歳出を減らさずに公債を発行し、借入金をして財政緊縮を止めろという議論ならば、根本において違っております。今日、世界の不景気のなかに立って、日本ばかりが景気のよろしい、歳入の減らないようなことはできない。今日の不景気には、金を解禁し、日本の財界を根本的に立て直し、自らの力と世界の不景気が景気になる。二つの力で直すほかにありません」
 その後、三土、井上の二人は舞台を『朝日新聞』に代え、論戦を続けるが、井上は翌昭和七年二月凶弾に倒れる。
 
 一方、井上蔵相に論戦を挑んだ三土忠造の生涯も、実に波乱万丈だった。
 明治四年香川県に生まれた三土は、苦学して東京高師に学び、米国に留学後は東京高師教授、「東京日々新聞」記者を経て、政界に進出。政友会の高橋是清に認められて、高橋内閣の書記官長を務め、昭和二年には田中内閣の文相、蔵相を、犬養毅内閣では逓信相、斎藤実内閣で鉄道相に就任するなど、紆余曲折はあったものの順風満帆だった。
 昭和九年、舞台が暗転する。「帝人事件」で、斎藤内閣は総辞職、鉄道相の三土も偽証容疑で起訴されたのだ。
 しかし、この帝人事件は「虚構」の疑獄事件だった。事件を告発した黒田検事は「世の中は腐っている。俺が天下を革正しなくては、いつまでも世の中は変わらない」と、政界浄化のため、この疑獄事件を捏造したのである。
帝人事件」の公判は実に二百六十六回にも及んだが、藤井五一郎裁判長は次のような判決を下した。
「空中ノ楼閣、水中ノ月ヲ掬ウガ如キ事件 証拠不十分ニアラズ、犯罪ノ事実ナキナリ」
 
 三土は濡れ衣の偽証罪で起訴されたが、その出所進退は実に見事なものだった。
 いったん被疑者になると、サッと政治の表舞台から退き、神奈川県辻堂の別荘に篭り、世間との付き合いを絶って、ひたすら謹慎した。三土は『湘南方丈記』の「はしがき」に、当時の心境を書き残している。
「洛北大原の片山陰に、ささやかなる庵を結んで居た鴨長明の昔を、学ぶにはあらずして、余は湘南辻堂なる草盧の 傍 に、四畳半一室の書斎を造った。此の小室の営みも、仏に仕えんが為にもあらず、穢土の累いを避けんが為にもあらず、忙中閑を得れば、暫く長安名利の地を去って、静に経史を繙き、思索を凝らして、身を修め、人を導き、国に尽し、世を益するの道を、探らんとするにある」
 三土は敗戦後、幣原内閣の内務相兼運輸相となり、昭和二十三年、七十七歳の生涯を閉じた。
 
 大東亜戦争に至る昭和前期は「動乱期」と呼ぶに相応しい。この動乱期に生きた国家指導者の群像からは、国家国民の將来に思いを馳せ、命を賭して、現実に真摯に向かい合い、懊悩し、苦闘する、雄々しい人間の真姿が見えてくる。

 
主幹・南丘喜八郎